小西印刷所 創業100周年記念サイト

Message

印刷を基点に、
つながりを未来へ

2026年、小西印刷所は創業100周年を迎えました。

この節目は、長年にわたり支えてくださった
お客さま、お取引先さま、地域の皆さま、
そして社員一人一人とのつながりの中で育まれてきたものです。

1926年の創業以来、時代の変化に向き合いながら、印刷を核に、
企画・制作・情報発信へと領域を広げてまいりました。

これまでの歩みに感謝を込めて、100年の歴史と、
その先につながる想いをご紹介します。

History

100年のあゆみ

1926年の創業から現在に至るまで、
時代と共に歩んできた歴史を
年代別にご紹介します。

1920s 1920s

創業の一歩

地域に根ざした印刷事業のはじまり

1930年購入のハイデルベルグプラテン機
1930年購入のハイデルベルグプラテン機

1926年4月、にて小西印刷所を創業しました。
当初の得意先は、キッコーマン醬油様やマルカン酢様などで、初男は毎朝決まって9時ごろ訪問していたとか。
印刷事業を通じて社会の公器となる会社を目指し、限られた設備と人員のなか、100年へとつながる小さな一歩がここから始まります。

小西初男(1950年)
小西初男(1950年)
1930s 1930s

設備拡充と基盤づくり

先進設備を導入し、成長の土台を築く

用海町の小西印刷所出入口付近
用海町の小西印刷所出入口付近

創業後業績は順調に伸び、1930年には当時の最先端自動印刷機をドイツより2台導入。
1935年には印刷機7台、補助機12台を備えるまでに設備を拡充し、昼夜兼行の作業が行われるまでになりました。

1940s 1940s

戦災を越え、再出発へ

焼失から復旧し、新たな体制を築く

西宮市御茶家所町社屋
西宮市御茶家所町社屋

太平洋戦争が激化する1944年には鉄の供出としてハイデルベルグ・プラテン機の1台を
1945年8月の西宮大空襲で用海工場は全焼しましたが、同年10月には西宮市御茶家所町で事業を再開。西宮では一番早い再始動だったようです。
1948年には株式会社へ改組し、困難な時代を乗り越えて再出発を果たしました。

1950s 1950s

復興と成長への足固め

工場拡張と人員増で、戦後成長を支える

プラテン4色機でゴッホ自画像の刷り色具合を確認する大石画伯と印刷スタッフ(1956年)
プラテン4色機でゴッホ自画像の刷り色具合を確認する大石画伯と印刷スタッフ(1956年)

1950年代は、戦後復興の流れに合わせて設備と人員を整え、安定した成長の足場を築いていきました。
1954(昭和29)年には、御茶家所町の第一工場を増改築し、従業員70名、印刷機8台、補助機15台に拡大。
印刷需要の高まりに応える体制づくりが進んだ時期でした。

写植室の風景
写植室の風景
1960s 1960s

研究開発と機能強化

第二工場と研究所を整え、成長体制を強化

当時の工場内部の様子
当時の工場内部の様子

御茶家所町の本社から徒歩3分(約240m)のあたりに、1960年末から第二工場の建設をスタートし、完成後、印刷機を設置。
翌年には印刷技術研究所とオフセット版印刷専門工場を設け、技術力と生産体制を強化しました。
さらに1969年12月には西宮市郷免町に4階建の本社ビルが完成。
ビジネスフォーム部門を移設し、成長を支える拠点整備が進みました。

建築中の御茶家所町第2工場
建築中の御茶家所町第2工場
1970s 1970s

本社機能の充実と50周年へ

規模と信用を高め、節目の50周年へ

1980s 1980s

総合印刷企業への発展

好景気を追い風に、印刷と制作の領域を広げる

1990s 1990s

震災を乗り越え、デジタル化へ

被災から立ち上がり、次代の印刷体制へ

M7.3(震度6)の直下型大地震で倒壊した夙川工場
M7.3(震度6)の直下型大地震で倒壊した夙川工場

1991年にはKOMORIの4色機を導入、1993年にはアポットクリエイションにMacintosh 2台とカラー出力機を導入し、設備更新を推進しました。
1995年1月17日、が発生。幸いにして人的被害はありませんでしたが、輪転工場は倒壊。 本社および本社工場の建物は一部損壊したものの印刷機には損傷がなく、震災3日後には事業を再開できました。
翌年8月にを日本でいち早く導入。その後もDTP、CTPシステムを導入し、デジタル化への対応を加速した時代でした。

8色機導入記者会見と見学会の様子を知らせる新聞記事
8色機導入記者会見と見学会の様子を知らせる新聞記事
2000s 2000s

制作環境の進化と領域拡大

印刷に加え、自動組版とWeb制作へ

制作には1人1台のパソコンが当たり前の時代に
制作には1人1台のパソコンが当たり前の時代に

2000年代に入ると、デジタルコンセンサス、FMスクリーニング対応のCTP、プリプレス自動化ソフト、新型の折機や断裁機などを順次導入し、制作から加工までの工程をレベルアップしていきました。
この時期にはシステム制作室を立ち上げ、自動組版やWeb制作にも着手。
従来の印刷事業の枠を超え、デジタル活用やシステム構築など、対応領域を広げた時代でした。

CTP機
CTP機
2010s 2010s

高付加価値化と新しい表現領域へ

印刷の価値を広げ、新事業にも挑戦

2020s 2020s

再編と継承、次の100年へ

グループ連携と拠点再編で、新たな章へ

夙川本社社屋
夙川本社社屋

2020年、日本創発グループと資本業務提携を締結。2021年には完全子会社となり、小西印刷所は大転換を迎えます。
2022年にはコロナ禍の観光業界を盛り上げるために開催された、に出展し、グループ商材を広く取り扱う営業スタイルを確立。
2025年には本社を西宮市夙川へ移転し、今津BASEを立ち上げて造形部門を本格稼働させました。
大阪支店開設やグループの効率化による東京支店の再編など、次の100年に向けた体制づくりが進んでいます。

夙川本社事務所フロア
夙川本社事務所フロア

Voices

100周年に寄せて

100年を支えてきた社員に
昔の記憶を辿って、懐かしい思い出を語ってもらいました。
リアルで意外な小西印刷所の一面をご紹介します。

私が入社した1978年、当社は昭和レトロな町工場でした。工場内では上下鼠色の作業着にスリッパを履き、くわえ煙草。夏は暑いのでランニングシャツで仕事していました。第2工場で出来上がった商品は、リヤカーに乗せて第1工場まで運びました。
当時、創業者の小西初男社長は運転手付きのベンツで出勤されていました。
経理課ではパチパチとそろばんを弾く音が鳴っていました。私は学生時代、商学部で会計学を専攻しましたので、入社時の面接で経理課配属の希望をしましたが、「そろばんができない」という理由で却下されました。

N.I

私が入社した時は「宿直」の人がいました。今のように機械警備がない時代なので、泥棒や火事から会社を守るため、夕方に出社し、翌朝まで会社に滞在していました。
宿直の人は、当社を定年退職した代々のOBでした。残業で午後11時を過ぎると宿直の爺さんが来て「早く帰れ」と𠮟られました。爺さんとはいえ元は私たちの先輩なので逆らえません。
今津西浜町の社屋では、玄関入ってすぐ左側の部屋が宿直室でした。畳の部屋があり、押し入れには布団が入っていました。
風呂もありました。風呂のあった場所は今、千秋殿になっています。

N.I

今津西浜町に本社が完成した直後、きれいな工場だったのでテレビドラマの撮影がありました。
印刷会社を舞台にしたドラマだったのですが、タイトルは覚えていません。
ロケバスが2台来て女優の土田早苗さんが来ました。テレビ局の人に「撮影中は普通に仕事してください」と言われましたが、一日中仕事になりませんでした。

N.I

昭和50年代は、毎年4月に電鉄会社のストライキがあり、国鉄・私鉄全ての電車が始発から動かない日がありました。
ストライキ前日に貸ふとん屋さんでふとんを借り、会社で寝泊りする人がいました。
営業部員は会社の営業車を前日に乗って帰り、ストライキ当日の朝、電車通勤をしている社員を自宅まで迎えに行って出勤しました。

N.I

1999年に低所得者と子どものいる家庭に地域振興券を配布することが決まり(バブル崩壊後の長期不況打開策として)、西宮市の地域振興券を当社で印刷することになりました。他の市町村からも依頼がありましたが、西宮分だけで手一杯でお断りしました。
当時私は工務課だったので、地域振興券の製造中は会社に泊まり込みました。
総額数十億円の金券なので、警備会社の屈強な体格のガードマンが会社の前に立っていて、身分証明書を見せなければ入れてくれませんでした。
納品時には兵庫県警のパトカーによる先導と、後ろから警察官がバイク2台で護衛する厳戒態勢の中、西宮市役所に届けました。

N.I

創業100周年おめでとうございます。
「Konishi」大きなロゴを掲げて走る配送トラック。阪神間では意外と有名だと知ったのは友人との会話でした。会社の話をすると、八割方「あ、あのトラック見たことある!」と返ってきたのです。何気なく見送っていたトラックが、100年の歩みの中で地域の人々の日常に溶け込み、景色の一部になっていたのだと感じた思い出です。

T.E

100周年の今年、勤続38年を迎えました。
入社した1988年は電算写植への移行期で、それまで行われていた活版印刷が下火になり、使われていたアルミ製の活字(1文字単位の部品)から、名前などの文字分を抜き取って記念に持ち帰ったことを今でも覚えています。
活版から電算写植(写真植字機)へ移行したとはいえ、業務はまだすべてがアナログの時代。お客様から受注すると伝票を手書きで発行し、お預かりした手書き原稿を制作部署に手渡し。オペレーターが写植機を使って入力したものを印画紙に感光して現像。必要箇所を切り取り、三角定規や糊、ピンセットを使って台紙に一枚ずつ貼り付けながら版下を完成させていました。
お客様との校正やり取りも、当時は出力したものを毎回届けたり、引き取ったりしていましたので時間がかかりました。急ぎの手配で夜中にバイク便を手配し、1カ月30万円も経費がかさんで会社から怒られたことも。PDFデータの送受信で行える時代が来るとは、想像もしていなかったです。
校了をいただいたら製版工程へ。大きな製版カメラで撮影してネガフィルムを作成。フィルムにはピンホールなどの欠損部分があり、絵具で修正するレタッチ作業が必須でした。そうして完成したフィルムを刷版機にセットし、アルミ版へ焼き付けていよいよ印刷が行われるという手順です。
ちなみに、当時はモノクロ製版しか対応できておらず、カラー印刷用のCMYK分解は外部に依頼。写真を4色分解する際は1点に付き1時間ほどかかり、写真に映り込んだ電柱を消すような修正作業には1週間以上かかることもありました。また印刷機は、油性インキの4色機、2色機、活版がありましたが、カラー印刷は片面ずつ行うため、乾燥時間も含めて最低でも2日は必要。製本工程は現在と大きく変わりませんが、工程のほとんどが手作業で、納品までの時間が今の何倍もかかっていたように思います。
その後、カラーコピー機やパソコンが普及し、印刷業界もアナログからデジタル、そしてAIの時代へと大転換が図られてきました。振り返れば、その大きな変革期のすべてを現場で経験できたことは、私にとって大変貴重な財産です。これから先、どのような時代になっていくのか楽しみでもあり、不安でもありますが、今後も印刷業界の変化を見守っていきたいと思っています。

S.K

2025年9月、新たな体制で大阪市南森町に大阪支店を開設しましたが、旧体制時も1972年10月から44年間にわたって大阪市に支店を開設していました。
私が大阪支店に配属になったのは、大阪市中央区瓦町に大阪支店が移転した1996年で、その頃はまだ1人1台のPCもなく、データを添付して送付することもできない時代です。
校正や校了紙のやり取りは、朝晩のメール便(社内配送)を頼りにしていました。制作機能も工場も本社(西宮市今津西浜町)にあったので、いま振り返るとよくそんな環境であれだけの印刷物をやり取りしていたなと思います。

その後、時代が進んで携帯やスマホ、大量データの送付環境は充実。営業窓口も大阪・兵庫で明確なエリア分けが不要となったため、2016年3月に大阪支店を閉鎖しました。それから4年足らずでコロナ禍となり、「大阪を閉鎖しておいてよかった」という時期がしばらくは続きましたが、再び「出社勤務に戻るお客さま」が増えたこともあり、結果的には良いタイミングで大阪支店を再開設することができました。

M.K

1994年、震災の前年に入社しました
印刷業界のことは全く知りませんでしたが、「これから業界は、DTP(デスクトップパブリッシング)になっていく」と会社でよく言われていました。当時は、名簿など文字主体の印刷物が多く、新人の私は印刷工程のどの部分をやっているかもよく分からず、ひたすら校正をしていました。また新入社員研修として毎年度頭に、ある案件の手作業を行うのが恒例で、10人の新入社員が夙川工場で交代しながら封入封緘や箱詰め作業などで汗を流しました。

当時会社には、2台だけマッキントッシュ(クアドラ950とセントリス650)があり、非常に高価な機器だと聞かされていました。関西ペイント様の印刷物に手書きされていたロゴをデータ化する作業が始まり、アポットに所属していたT.Sさんにいろいろ教えてもらいながら、イラストレーターでひたすらトレースしました。
社内ではまだデータを出力する機器がなく、データ化されたものをMOやFDに保存して外部のグラフィックセンターまで持っていきます。印画紙やフィルムに出力されるまで数時間かかり、帰ち帰って版下に貼り付ける作業をしてもらうのですが、間違いが見つかったら修正したデータをまた出力センターに持ち込む、ということを繰り返していました。
ロゴ以外でデータ化できていたのはほんの一部で、それ以降もまだまだアナログな時代でしたし、カラー製版は100%外部でした。

印刷業界は、DTPと同時に、WYSIWYG(ウィズウィグ/'What You See Is What You Get'の略)といって、画面でできたものがそのまま印刷物になるという(当時は)画期的な技術が登場し、一気にその方向へ進んで行きました。技術を学ぶため、当時サンフランシスコで行われたシーボルトという展示会にも派遣されました。
当社でもサイテックス社のドレブ4Pressというフィルム出力機が導入され、社内でマックから直接面付けしたフィルム出力ができるようになります。これにより社内でカラーのフィルム出力が可能になり、自動植版機も加わってデジタル化とカラー内製化が加速しました。
2000年ごろには業界でもCTP(コンピューターtoプレート)化が進み、データからフィルムを超えて直接版に出力するのが一般化。当社でも導入され、以降、版出力の高速化や環境に配慮された現像処理のいらない、無処理版の採用などに変わっていきました。

ところで入社の翌年に発生した阪神・淡路大震災の話ですが、大阪と神戸ではまったく被災の状況が異なったことを覚えています。神戸方面から通勤していたT.Sさんたちと私は、会社の3階に布団を敷いて寝泊まりしていました。尼崎の方にある銭湯行ったりしていましたが、しばらく後で会社にシャワー室が作られ、大変助かりました。

西宮市からの要請で災害広報を印刷することになっていたようですが、入社2年目の私が覚えたばかりの「QuarkXPress」「Photoshop」を使って組版をしながら、モノクロプリンタの出力紙を版下として製版していた記憶があります。ピンポールが多く、消すのが大変だったようです。(後に西宮市立図書館に保管されているのを見たように思います)

さまざまなことが復旧してくると、震災を機に広がり始めたインターネットにも会社として目を向けるようになってきました。事業としてインターネットをどう活用できるか、業界としても会話されるようになっていた頃です。当時、ロック・フィールド様やシュゼット様の案件で、横浜のデザイナーさんと当社をISDNで結んでデータの受け渡しを行っていました。
ある日、役員から「この部屋を空けるから、明日からインターネットをやれ」と言われ、突然インターネット関連業務を始めることになりました。当初「Web準備室」という名称で始まりましたが、専門的な知識が少なかったため、外部の識者の協力を得つつ、方向性を模索していきました。スタートメンバーは私+1人で、その後女性1人が加わり、数年間3人体制で、主に顧客のWebサイト制作や商品情報データベースを中心としたホスティングを担当しました。人数の増減はありつつも、現在では9人が主にWeb担当として業務にあたっています。

印刷以外で当社独自の商材を開発する社命には泣かされてきましたが、Web制作が追加されたことで「MASTシステム」と銘打ったシステム開発が実現します。各種データ管理を行うデータベースを軸に、毎年さまざまな展示会出展することが年間行事の一つとなりました。この経験は、後の展示会ブース関連サービスに繋がり、当社にとって良い功績になったと思っています。

S.H

入社当時(1994年)はスポーツイベントも多々あり、野球やソフトボールをしたり、ボウリングをしたり…。今となっては時効ですが、15時くらいまでに営業を終わらせてバッティングセンターに集結し、仕事より真剣にバットを振っていたこともありました。今津本社(現在の今津Base)の隣にある大阪ガス体育館を借り切って、得意先のK社の皆さんとバスケットボールやバレーボール、バトミントンなど1日中スポーツをしていたこともあります。どれも本気で戦っていい汗をかいた、懐かしい思い出です。
また年末、年度末などは全社、残業に次ぐ残業で、疲れが出始めたころを見計らい、当時の専務の一声で恒例イベントがスタート。買い出し隊が出発し、事務方の女性陣が大鍋を用意しておでん作りが始まります。だしのいい香りが社内に広がり、出来上がったおでんを食べながら仕事をしていた記憶が残っています。ピザ、ぜんざい、たこやき…など、いろいろごちそうになりました。今思えばほっこりした時代だったなぁ。

K.M

阪神・淡路大震災が起こった当時、私は営業部に所属していました。交通機関や道路はマヒしていたため、西宮市内のお客様先へ自転車で商品を届けていたのが思い出されます。また、主に神戸方面の営業担当だったので、神戸のお客様廻りもしばらくは自転車で行っていました。「あの時は、まだ若かったんだなあ」という感慨とともに、非常事態だからこそ一丸となって、復興に向けて進んでいけたのだと思います。

N.M

Next 100 Years

次の100年へ

100年という時間の中で育まれてきたのは
技術だけではなく、人と人との信頼とつながりでした。

これまで支えてくださった皆さまへの感謝を力に変え
小西印刷所らしい発想力と機動力で
これからも期待を超える新しい価値づくりに
挑み続けてまいります。