History
100年のあゆみ
1926年の創業から現在に至るまで、
時代と共に歩んできた歴史を
年代別にご紹介します。
History
1926年の創業から現在に至るまで、
時代と共に歩んできた歴史を
年代別にご紹介します。
創業の一歩
1926年4月、がにて小西印刷所を創業しました。
当初の得意先は、キッコーマン醬油様やマルカン酢様などで、初男は毎朝決まって9時ごろ訪問していたとか。
印刷事業を通じて社会の公器となる会社を目指し、限られた設備と人員のなか、100年へとつながる小さな一歩がここから始まります。
設備拡充と基盤づくり
創業後業績は順調に伸び、1930年には当時の最先端自動印刷機をドイツより2台導入。
1935年には印刷機7台、補助機12台を備えるまでに設備を拡充し、昼夜兼行の作業が行われるまでになりました。
戦災を越え、再出発へ
太平洋戦争が激化する1944年には鉄の供出としてハイデルベルグ・プラテン機の1台を。
1945年8月の西宮大空襲で用海工場は全焼しましたが、同年10月には西宮市御茶家所町で事業を再開。西宮では一番早い再始動だったようです。
1948年には株式会社へ改組し、困難な時代を乗り越えて再出発を果たしました。
復興と成長への足固め
1950年代は、戦後復興の流れに合わせて設備と人員を整え、安定した成長の足場を築いていきました。
1954(昭和29)年には、御茶家所町の第一工場を増改築し、従業員70名、印刷機8台、補助機15台に拡大。
印刷需要の高まりに応える体制づくりが進んだ時期でした。
研究開発と機能強化
御茶家所町の本社から徒歩3分(約240m)のあたりに、1960年末から第二工場の建設をスタートし、完成後、印刷機を設置。
翌年には印刷技術研究所とオフセット版印刷専門工場を設け、技術力と生産体制を強化しました。
さらに1969年12月には西宮市郷免町に4階建の本社ビルが完成。
ビジネスフォーム部門を移設し、成長を支える拠点整備が進みました。
本社機能の充実と50周年へ
1970年代は、創業者の印刷功労賞受賞、倉庫建設、大阪営業所をはじめ岡山・広島と営業所を続々開設。
1971年には、日本モダンデザインの父と呼ばれた西宮市在住のデザイナー、今竹七郎氏に依頼して社章を改定。
増資なども進み、1975年創立50周年を迎える頃には、印刷機26台、補助機75台、車両30台を有し、従業員も150余名。
企業としての規模と信用を大きく高めた時代となりました。
また、1972年にはハイデルベルグ・プラテン機が引退。長年の功績を称え「」として神格化し、千秋殿に安置しました。
総合印刷企業への発展




1980年代は景気拡大との活況を背景に、企業の販促や広告需要が大きく伸びた時代です。
1981年、西宮市今津西浜町に。総合印刷工場として設備導入を進めました。
1984年には、初めてハイデルベルグ全自動4色機を導入。します。
1985年にエグザス様の仕事拡大を機に、東京営業所を開設。同年、電算写植機を導入し、80年代後半には長年親しんだ活版印刷を終了させ、電算写植に完全移行しました。
1986年にはを設立。デザイン制作やディレクション業務など、印刷の上流域にも業務を広げていきます。当時は印刷会社がデザインも手掛けることが珍しく、大変重宝されたとか。
芸能人やスポーツ選手へのインタビューなど、バブル期らしく華やかな仕事もたくさんありました。
震災を乗り越え、デジタル化へ
1991年にはKOMORIの4色機を導入、1993年にはアポットクリエイションにMacintosh 2台とカラー出力機を導入し、設備更新を推進しました。
1995年1月17日、が発生。幸いにして人的被害はありませんでしたが、輪転工場は倒壊。
本社および本社工場の建物は一部損壊したものの印刷機には損傷がなく、震災3日後には事業を再開できました。
翌年8月にを日本でいち早く導入。その後もDTP、CTPシステムを導入し、デジタル化への対応を加速した時代でした。
制作環境の進化と領域拡大
2000年代に入ると、デジタルコンセンサス、FMスクリーニング対応のCTP、プリプレス自動化ソフト、新型の折機や断裁機などを順次導入し、制作から加工までの工程をレベルアップしていきました。
この時期にはシステム制作室を立ち上げ、自動組版やWeb制作にも着手。
従来の印刷事業の枠を超え、デジタル活用やシステム構築など、対応領域を広げた時代でした。
高付加価値化と新しい表現領域へ


2010年代には中綴機、スリッター、検版・検査システム、デジタル印刷機、UV印刷機、折機などを再編し、生産体制をさらに深化させました。
2016年には創業90周年を迎え、大阪支店を本社に統合。
同時に課を開設し、3Dポップアップカードの企画・販売を始めるなど、新しい表現領域にも挑戦した時代でした。
再編と継承、次の100年へ
2020年、日本創発グループと資本業務提携を締結。2021年には完全子会社となり、小西印刷所は大転換を迎えます。
2022年にはコロナ禍の観光業界を盛り上げるために開催された、に出展し、グループ商材を広く取り扱う営業スタイルを確立。
2025年には本社を西宮市夙川へ移転し、今津BASEを立ち上げて造形部門を本格稼働させました。
大阪支店開設やグループの効率化による東京支店の再編など、次の100年に向けた体制づくりが進んでいます。
Voices
100年を支えてきた社員に
昔の記憶を辿って、懐かしい思い出を語ってもらいました。
リアルで意外な小西印刷所の一面をご紹介します。
N.I
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N.I
N.I
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T.E
S.K
M.K
S.H
K.M
N.M
100th Logo
弊社のデザイナーが100周年記念ロゴとして作成したものです。
3案のコンセプトをご紹介します。
これまでの100年の繋がりと、これからも繋がっていくという想いを込め、自社ロゴを再構築した「100」の数字のキャラクターが手を取り合う、親しみのあるものにしました。
印刷のCMYK 4色で、印刷機のローラーをイメージした「100」を形成。ピクセル状の翼はアナログからデジタルへの進化の変遷や、大きく飛躍してゆく未来を象徴しています。
100周年への祝福を込め、「1」をろうそくに見立てました。カラーはCMYKを想起させるトーンとし、さらにトンボを取り入れ「印刷会社ならでは」の個性を表現しています。
VOL.01
明治30年7月、西宮で生まれた初男が、小西印刷所を創業したのは28歳(大正15年)のとき。
日本の産業規模はまだ小さく、印刷需要も極めて少ない中での起業で、今でいうスタートアップ企業といえるかもしれません。
初男は、人情味と倫理感覚を併せ持ち、確かな見識で周囲から一目置かれる人物。
「千載非所知 聊以永今朝*(せんざい しょちにあらず いささかもって こんちょうをえいせん)」という漢詩を座右の銘とし、「健康で日々善意を尽くしていれば、何とかなるのは間違いない」といった考えの持ち主でした。
健康には人一倍気を遣っていたようで、自宅には浴槽が2つあり毎朝、温冷浴を欠かさなかったとか。1カ月に1度は30カ所にお灸をすえたり、毎月1.2回は断食をするなど。
昭和54(1979)年に会長就任後も第一線で会社と業界の発展、地域社会の福祉・奉仕に寄与し続け、89歳まで元気に過ごしたそうです。
*現代語訳:千年先のことなど知りようもない。せめて今この朝(今日このとき)をよいものとして生きよう。
VOL.02
創業当時、社屋を構えた用海町は、全体にのんびりとした旧家町といった雰囲気。付近には用海小学校や日本盛の酒蔵がありました。
元は呉服屋の持ち家で、古風斬新味ある2階建て。東西の小径の一角に位置し、南角は亀甲半割型造りで、中庭や洋間、東側の道路脇には土蔵もありました。
ガラス戸に金文字で「小西印刷所」と書かれていて看板らしいものはなく、印刷所とは思えない風格があったようです。
当時は住み込みの人が多く、元の母屋を改造し、紙倉庫の2階で寝起きしていたと記録されています。
VOL.03
1930(昭和5)年、初男は代理店を通じてドイツ・ハイデルベルグ社より、当時もっとも自動化が進んでいたプラテン機を輸入します。
工場の設置計画を進めていた折、大阪天王寺公園で開催された工業博覧会で、初めてその英姿を見て一目惚れ。
国内で売られていた印刷機10台分の値段であったにもかかわらず、即導入に踏み切りました。それも2台。
まだ、手差し機しかなかった日本の印刷産業界。同機は日本国内に数機しか輸入されていないレアもので、一人のオペレーターが2台の機械を稼働する様子はかなりのインパクトを与え、大評判になったのです。
2代目社長、伊田清之助(当時専務)は、初めてプラテン機を見たとき、「シュッポ、シュッポと蒸気機関車のような軽快音で、側に誰もいないのに独りでプロペラを回転させ、機械が勝手に仕事をしている」とずいぶん奇異な感じを受けたとか。
会社には、東京や九州からも見学に訪れる人が後を絶たず、全国の印刷業界に小西印刷所の名前が知れ渡ったといいます。
VOL.04
1941(昭和16)年に突入した太平洋戦争が日ごとに熾烈さを帯びてきたころ、金属類回収の発令を受けて、プラテン2号機を供出することになりました。
さらに1945年8月5日夜には、米B29戦闘機数十機による西宮大空襲があり、用海工場や初男の自宅も含め、市内の大部分は灰燼に帰してしまいます。
しかしプラテン1号機は、外側を板で囲って30cmほど粘土で塗り固め、工場の地下に埋めて防衛。
無事戦火を逃れ、終戦後わずか2カ月で小西印刷所が復興を果たす原動力になりました。
VOL.05
ビジネスフォーム印刷は、左右に穴の開いた特殊紙などを用いて、官公庁や企業の受領書などを大量に印刷する印刷手法です。
コンピューター普及の波に乗り、会社の売上を支える主力事業へ大きく成長。
一方、第二工場の輪転機では競馬の馬券、競輪の車券、ボートレースの舟券なども印刷されていました。
VOL.06
本社ビル新設を機に、小西印刷所を40年にわたり支え続けたプラテン機が老朽化により引退。「至誠号」と命名し、本社裏庭に建立した「千秋殿」に社の守り神として安置しました。
その時の心情を創業者は「単なる宗教的思想ではなく、千秋殿を通じて人間お互いが品性を納めて有終の美を全うしたいと念願したもの」と記しています。
引退といっても、このプラテン機はいたって元気で、1996(平成8)年に行われたハイデルベルグ社の記念懇親会で、大正15年10月14日付東京朝日新聞を印刷。
参加していた1,200人もの観衆を驚かせたという記録も残っています。
至誠号は現在も、小西印刷所・今津Baseにある千秋殿で、当社にかかわるすべての人の健康と繁栄を見守っています。
VOL.07
西宮市今津西浜町に新設した建物は、建築面積2465.68㎡、地下1階、地上3階建の鉄筋コンクリート造。
旧本社ビル(郷免町)を夙川営業所、ならびに輪転印刷専門工場に変更し、倉庫なども含め多拠点展開で臨んでいました。
1884年には封入封緘機も導入し、兵庫県の業務を受注。
24時間稼働して2週間ほどの短期決戦で対応していたようです。
VOL.08
1985年12月、住友銀行西宮支店の協力で、社員専用現金自動支払機(CD機)が、本社3階会議室に設置されました。
翌年1月から預金が引き出せるようになり、大変好評だったとか。折しもバブル絶頂期。
当社も右肩上がりの成長で、華やかな時代を迎えていました。
VOL.09
カラー印刷機を導入したものの、当時はまだモノクロ製版しか対応できておらず、カラー印刷用のCMYK分解は外部に依頼していました。
カラー印刷の増加に伴い、カラー製版の外注費が増大。
DS平型全自動殖版機(PC-800-G)他一式を設備し、刷版の社内生産化へ舵を切りました。
VOL.10
「これからはソフト面が重要」という久島社長の肝いりで、1986年にクリエイティブ業務を担うアポットクリエイションを設立。
小西印刷所の特長でもある幅広い業種のお客様ニーズに対応できるよう、あえてディレクション業務を主に社内に制作部隊は置かず、専門性や対応力に合わせて社外ブレーンを活用する体制にこだわりました。
印刷物に関わる企画・デザイン制作はもちろん、イベントやパーティの企画・運営なども手掛けていました。
VOL.11
創立70周年を迎えようとする1995年、阪神・淡路大震災が発生。
夙川にあった輪転工場は倒壊し、機械類も使えない有様。しかし、本社への影響は幸い少なく、人的被害もありませんでした。
それでも水道は使えない状況で、印刷に必要な水を社員宅の井戸水などから調達し、社員総出でバケツリレーして機械場へ。
震災3日後には在庫紙総動員で西宮市の地震災害広報を印刷。
市内全戸に配る10万枚以上を徹夜して2日間で制作し、エレベーターの止まった市役所7階まで納品しました。
VOL.12
震災で士気の下がった社内の活性化・刺激策、そして70周年の節目として、順三郎社長(四代目)は、ハイデルベルグ菊全版8色両面兼用機(以降、8色機)の導入を決定。「第二の創業期」と位置付け、刷新を図りました。
この印刷機は関西第1号機(国内第6号機)で、それまでの4色機では片面を刷った後、乾かしてから裏面を刷るという時間が必要でしたが、8色機は裏表4色が一気に刷れるため納期は3分の1へ短縮。
オペレーターや労働時間の削減、工場環境の改善につながるなど、多くのメリットももたらしました。
この新潮流印刷機は、「印刷機に1回通すだけで裏表4色カラー印刷を行いたい」という全世界ユーザーの希望で生まれただけあって、導入のニュースはたちまち評判に。
ハイデルベルグ社主催で開かれた工場見学会には、観光バスを連ねて全国から74社・120人が訪れたそうです。
No.13
繊細なパーツを人の手で組み立てる技術を有するベトナムのPaper Art Viet LLC社とコラボし、日本総代理店としてWAO!POP 3Dカードの企画・販売を開始しました。
ビッグサイトで行われた「【国際】文具・紙製品展 ISOT」にブースを出展し、「JURASSIC BOOK」で第26回日本文具大賞優秀賞、「ひとひらシリーズ(もみじ・さくら・いちょう)」で第27回日本文具大賞優秀賞という2年連続受賞の快挙を達成。
「ひとひらシリーズ」は、テレビや新聞などにも数多く取り上げられ、大きな反響を生みました。
No.14
社内外から「印刷会社なのに?」といわれつつ、「第1回観光ショーケースin大阪・関西」へ出展。
日本創発グループの強みを生かし、非接触型ピピットガチャやミステリーツアー企画など、グループ仲間の商材を来場者へ多数アピールしました。
お陰様で出展企業中、一番の集客数という成果を上げました。
これを機にグループ仲間の商材を扱うことが通例化し、営業スタイルの大きな転換点になりました。